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織田信長による比叡山焼き討ちは、彼を冷酷な暴君とみなす象徴的な出来事として語られる一方、当時の延暦寺が武装勢力として政治や戦に深く関わっていたという背景からも論じられてきた。元亀2年(1571)9月、延暦寺の堂塔や貴重な経巻が焼かれ、多くの僧侶や民衆が命を落としたこの事件の記憶は、現在も比叡山の麓に静かに刻まれている。

その記憶をたどる場所のひとつが、坂本ケーブルの途中駅「ほうらい丘駅」である。日本一長いケーブルカーとして知られる坂本ケーブルは、1927年に開業し、ケーブル坂本駅から延暦寺駅まで約11分で結ぶ。沿線では橋やトンネルを抜ける変化に富んだ景観や、単線でありながら安全にすれ違う仕組み「ターンアウト」など、鉄道技術の特徴も楽しめる。

しかし戦国史に関心があるなら、途中のほうらい丘駅で下車する価値がある。無人の小さなホームに降り立つと、周囲は風と鳥の声だけが響く静寂に包まれる。そのすぐ裏手には、焼き討ちの犠牲者を弔う石仏が並ぶ霊窟がひっそりと存在している。

そもそも焼き討ちは、信長と延暦寺の長年の対立の中で起きた。戦国時代の延暦寺は宗教拠点であると同時に、僧兵を擁し、政治や軍事に影響力を持つ大勢力だった。姉川の戦いの後には、浅井・朝倉連合軍が比叡山に入り、信長と対峙する拠点ともなった。信長にとって近江支配の要衝に位置する比叡山は看過できない存在だったのである。

1571年9月12日、信長は総攻撃を命じ、麓の坂本から多くの人々が山上へ逃れた。従来、霊山である比叡山は攻撃されないという認識があったが、織田軍はそれを覆して侵攻し、根本中堂をはじめとする堂塔や僧房、経巻を焼き払い、逃げ込んだ人々も犠牲となった。犠牲者数は史料によって異なり、『信長公記』では数千人、宣教師ルイス・フロイスは約1500人、公家の日記では3000〜4000人とされるが、多くの命が奪われた事実に変わりはない。

ほうらい丘駅の霊窟に並ぶ石仏は、その犠牲者たちを弔うものであり、静まり返った山中で対面すると、歴史の重みが現実のものとして迫ってくる。寂しげな空気に包まれたその場所は、単なる観光地とは異なる深い余韻を残す。

再びケーブルカーに乗り山頂へ向かうと、やがて視界が開け、琵琶湖の雄大な景色が広がる。重い歴史に触れた後だからこそ、その眺めは一層清々しく感じられる。わずか11分の移動ながら、歴史と自然の両方を体感できるこの道のりは、単なる移動手段を超えた特別な時間となる。乗車中、「もう着いてしまうのか」と名残惜しさを覚えるほど、印象深い体験を与えてくれる。

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比叡山焼き討ちの記憶が残る場所へ。日本最長のケーブルカーに乗り、途中の秘境駅で下車してみた
…織田信長による比叡山焼き討ち。この出来事をめぐっては、信長を暴君とする見方がある一方で、当時の延暦寺が武装勢力として政治や戦に関わっていたことを背景…
(出典:旅人間)

 

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